レガシーとしての共生社会

【連続投稿1188日目】

 

ある障がい者が言いました。「人間であればみな同じ。なんで分類するんだろう」

 

年齢、障がいの有無、性別、国籍色々と違いはあります。でも、「人間」なんです。自分たちで勝手に枠を作って、その枠を通じてしか人を見ようとしない。だからその人自身の本当の姿を見ることができなくなってしまう。

枠を作るから、人は苦しみます。枠ではなく、様々な角度から、様々な視点から人を見る。そうすると、枠という狭い範囲では気づかない素晴らしさに気づくことができます。いろんな人がいる。相手を知り、理解すること。決して上から目線ではなく、対等に。結局、自分自身が作り出したものに苦しんでしまっている矛盾。

 

両腕がないのに、全身を使って背泳ぎする姿。様々な障がい度合いに応じてそれぞれのポジションでできることを全力で行う車いすラグビーやバスケットボール。工夫された道具もさることながら、我々が知っている人間の可能性なんて、実はほんのちょっとの部分しか知らないのではないか。

 

東京オリンピックパラリンピック組織委員会が今月で解散します。レガシーなる言葉がここ数日また飛び交っていますね。

日本における「共生社会」の出発点が、東京オリンピックパラリンピックだった、と思われるのが一番のレガシーだと思っています。